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オセロ史を飾った百人の名選手の物語
(第3回)ビッグバンとその後の大展開


1.宇宙もオセロもビッグバンで始まった

 約200億年前、宇宙はビッグバン(大爆発)で突如として始まりました。ビッグバン後、たったの3分間で、陽子や中性子、水素や重水素、ヘリウムなどの軽い元素(星の未来の材料)だけが作られ、酸素、炭素や鉄等、惑星や生物に必要な多くの重い元素は、その後生れた星の体内で長い時間をかけて作られたものです。

 1930年代に、ガモフ(アメリカの物理学者)によって唱(とな)えられた宇宙開闢(かいびゃく)ビッグバン説は、1965年に、彼の予言通りにその絶対的な証拠となる背景放射(3度K)が発見されて、揺るぎないものとなりました。ビッグバンの一撃で、宇宙は200億年後の現在も、どんどん膨張を続けています。

 オセロも、1973年4月25日の発売後間もなく、ビッグバンが起こったのです。これによって、その1年間でオセロ競技人口は数千人から一気に2000万人になり、伝統のある囲碁1000万人、将棋1500万人を抜いて一躍トップになりました。その後もどんどん増(ふ)え続けて現在は6000万人以上となり、日本で最もポピュラーなゲームの1つになっております。
 本式の盤と石を使ったのは1973年4月7日の第1回全日本オセロ選手権大会の時からですが、その時はまだ発売はされていません。当日、取材を兼ねて会場に来られたM氏は、土産に貰った本式の盤と石一式を持って3時過ぎに帰社。その日は土曜日で、社には数名の女子社員もいて帰り支度をしていました。「どうでした?」「とても面白いよ」との短い会話の後、早速彼女達はオセロを打ち始めました。囲碁と将棋とは全く無縁の彼女達が、初めて見るオセロ盤、石の美しさに見惚(と)れ、皆で歓声をあげたり、笑ったりしながらオセロを打ち続けました。M氏は所用で外出、8時頃帰社すると、何と彼女達は依然として楽しい雰囲気でオセロを打ち続けていたのです。
 この話をM氏から聞いた時、私は何年か前に牛乳ビンのフタ3枚を貼り合わせて作ったオセロの石と手製の盤を会社の女子社員のSさんYさんに与えた時の光景がダブッて見えました。石の大きさ(直径3.5センチ)、盤の大きさも全く同じですが、今回のは本式の製品なので流石に一段と洗練されていてこの盤と石で打つオセロは一段と楽しくなるのは上記M氏の話でも明らかです。手製のオセロ用具時代、国立病院医長のK先生が、「こんなに面白くて奥の深い素晴しいゲームが、何時迄経ってもどうして製品になって出て来ないのだろう?製品化すれば大ヒット間違いなしなのに、メーカーは何を考えているのだろう。」と繰り返しいわれたこと、その他沢山の事例が走馬燈のように次々と浮かんできました。
 乾き切った大地の中で草木の種がじっと雨を待つ(一雨降れば大地はたちまち緑一色)ように、市場は緑の盤(オセロ盤は緑)の登場を心待ちしていたのです。

 読売新聞がトピックという形でオセロを紹介したのが4月29日(日)で、「…緑の上に白と黒のコントラストが美しく、子供たちは石をいじるだけで楽しいふんい気になるようだ。…勝負の時間はせいぜい十数分と手ごろ。スピーディな現代にふさわしく、また家族の対話を生むゲームとしても評価されそうだ。」と評し、「さる25日からデパート、がん具店、文房具店などで本式の盤と石を発売(2200円)中、日本オセロ連盟のTEL(私自宅)及び住所…」も記してありました。
 その日、最初にTELのベルが鳴ったのが午前8時頃で、それから夕方の4時50分迄TELのベルは間断なく鳴り続けました。その数約200本以上。午前10時なったのでTELの対応を妻に代わってもらって一息ついていると、今度は玄関のブザーがブー。出てみると若い奥さん、「読売新聞で見ました。近所の者ですが、お電話をしたのですが通じないようなので直接お伺いしました。オセロを1台譲って頂けないでしょうか?」「OKです。」………4時50分に初めてのTELが中断、静寂な10分間が流れました。5時に又TELのベル、「ハイ、日本オセロ連盟です。…」「オヤ?通じるのですね!実は私は電々公社の者ですが、新聞に載っているこの電話番号がどうしても通じないという問い合せ、苦情がお客様から沢山入ってますので、当社としても確認を急いでいた所です。…。あっそうだったんですか。事情はよく解りました。」それにしても、市場のこのエネルギーに脱帽。

注1 宇宙の場合には、まず超ミクロの宇宙が生れ、それが瞬時に大膨張(インフレーション)し、そこで宇宙の相転移が起りました。その結果、莫大(ばくだい)なエネルギーが放出され、それがビッグバンになりました。
 オセロの場合には、まず製品でオセロを打つと凄く楽しいこと(絶対条件)、次にそれを受け入れる莫大な市場のエネルギーがそこにあってビッグバンが起りました。市場のエネルギーとは、1945年8月、廃墟(はいきょ)の中から出発した日本を数十年で世界第2の経済大国にしたのも、この市場のエネルギーでした。バブルが崩壊した現在なら、決してビッグバンは起らなかったでしょう。


1.全日本オセロ選手権大会特選譜

第2回大会 男子の部決勝. 笠原孝一(東京)対山下和秀(広島) 2番勝負第1局
第3回大会 女子の部決勝. 水谷孝美(静岡)対竹田恭子(神奈川) 2番勝負第2局
第4回大会 男子の部準決勝. 藤田二三夫(静岡)対井上博(東京)

第2回大会1974.5.5
於帝国ホテル
圧倒的強さで笠原氏初優勝!
女子は鈴木さんに栄冠

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女子の部決勝2番勝負
吉田浩子さん(左・広島)対鈴木富美子さん(東京)。1勝1敗となり、鈴木さんの判定勝ち。

男子の部決勝2番勝負
山下和秀氏(左・広島)対笠原孝一氏(東京)。笠原氏の2連勝。

燦然(さんぜん)と優勝杯を手にした笠原孝一氏(28才)と鈴木富美子さん(22才)

 マンモス大会の舞台裏

 第2回大会は全国で予選会場500箇所、予選出場人数15,000人以上というマンモス大会になりました。知られざる強豪が各地に輩出。井上博氏(ミキモト・囲碁五段・後にオセロ全日本・世界チャンピオン)は、新聞でオセロの存在を知り、早速碁石を使ってオセロを始めその面白さに魅了されて1年。今では周囲に敵なしの存在。秋山末雄氏(会社員、将棋五段)は、新聞でオセロの存在を知り、間もなく結成されたオセロ連盟静岡支部の仲間と研鑽(けんさん)すること1年、今では静岡県内屈指の打ち手に成長。……。
 しかし、1974年4月東京で行われた東日本最終予選(男子の部枠(わく)4名)では、井上氏も(笠原氏に敗れて)、秋山氏も(大山氏に敗れて)予選落ち。府中の強豪鈴木敏生氏(医師)もDブロックで5連勝で優勝しながら、ベスト4決定戦でEブロック優勝の細川氏に敗れて予選落ち。粉川誠一氏(大学生、小田急大会優勝者)は「こんな強い相手(笠原氏)と最初にぶつかった僕は運が悪い。僕の勘では、笠原さんは絶対にチャンピオンになると思う。」と語りましたが、その予言通り笠原氏は殆ど鎧袖一触(がいしゅういっしょく)の感で、予戦、本戦を通じて13連勝でチャンピオンになりました。但し、1局だけ笠原氏が薄氷を踏む思いをしたのがありました。それが次に示す1局です。

(白52迄の局面)
(原図)  黒番
(実戦1図)悪手の☆打ち(12石損)
白が天王山に打つ!
(実戦2図)黒番。白勝勢

(正解1図)黒が天王山に打つ
(正解2図)黒番、黒勝勢


 オセロとは、好手を打って勝つよりは、悪手を打って負けるゲームなり
(オセロ格言)。

 原図はCが天王山で黒番ですから黒絶対優勢です。こういう結果になったのは、実戦白44の悪手(正解はここで白d1と余裕手を放出)が原因です。
 然るに実戦では、折角訪れたこの絶妙のチャンスを黒はミスミス逃してしまいました。天王山に打つのと(正解1〜2図)、打たれる(実戦1〜2図)との差を比較すればその差は明らかです。

第2回全日本オセロ選手権大会男子の部
決勝2番勝負第1局(1974.5.5於帝国ホテル)

黒・山下和秀白・笠原孝一(6石勝)
(広島)(東京)
第2局・黒・笠原(28石勝)…優勝

 オセロは趣味、楽しむもの

 オセロにはプロはなく、チャンピオンになった人も生活の基盤は他にあります。笠原氏は府中のS病院事務局勤務、鈴木富美子さんは田無のS病院の看護婦さんで、実をいうと、当時両方共私がが仕事上直接担当していた病院です。その後生まれた笠原氏の2人の子息も現在は社会人。
 笠原氏に予選で敗れた粉川誠一氏(当時大学生)は温厚な銀行マン「笠原さんに完敗した1局は懐かしい思い出です。オセロで楽しんだ子供達も大きくなって手を離れ、第34回関東女子学生剣道選手権大会(参加選手392名)で娘(彩さん、大3)が優勝した時は、我々と双方の両親4人も人並みに大騒ぎしました。あと10年以上経ったら、今度は孫とオセロを打つのが楽しみです。
 オセロは人生で3回楽しめる(本人の青春時代、親となって子供と、祖父母となって孫と)素晴らしいゲームだと思ってます。」と粉川氏はにこやかに語りました。




オセロ全日本チャンピオン勢揃(せいぞろ)い!
第10回全日本大会終了直後の記念写真(1982.8.8)
前列左から
井上博八段(第5、7回全日本、第1、3回世界)
丸岡秀範八段(第6、9回全日本、第2、5回世界)
三村卓也五段(第8回全日本)
水谷孝美五段(第3回全日本女子)
水谷美貴子五段(第5回全日本女子)
谷田邦彦七段(第10回全日本、第6回世界)
2列目左
長谷川武五段(第4期名人)
(全員順次本欄に登場します。)


第3回大会1974.8.14
小6・水谷孝美さん、女子の部で優勝!
 瞬間の芸術(相撲)と短手数の芸術(オセロ)

 数秒で勝負が決ることの多い相撲(1分も戦えばこれは大相撲で拍手!)では、立ち上がってから1秒の攻防は見ごたえがあります。「今の相撲は立合いが総てでした。」と解説者がよく強調するゆえんです。
 60手という短手数で勝負の決るオセロでは、最初の5手は特に重要で、鼠、牛、虎、兎の四大定石が基本となっております(「オセロの勝ち方」序盤の戦い方P35〜P117参照)。

 定石を超え、自由奔放に打った結果は?

兎か?虎か?
虎定石決定

虎本定石へ
なぬ?恭子流の新手
正しい応手

第3回全日本オセロ選手権大会女子の部決勝2番勝負
第2局(1975.8.14. 1局目は竹田さんの16石勝ち)

黒.竹田恭子(神奈川)
白.水谷孝美(静岡)32石勝
(双方1勝1敗水谷さんの判定勝)
上方の黒壁なんか気にしない。とに角1石返しですよ。
ダンゴ石(好形)の登場。早くも白絶対優勢!

 定石とは、数千局、数万局の試練に耐えて生き残った双方最善手順の連続、お互いに満足できる分かれになるものをいいます。
 をアに打てば虎本定石の完成。そんなことは百も承知の竹田さんが、この大舞台であえて恭子流の新手を打ったのは、相手は12才の可愛らしい少女。貯金(16石)もあるし、まだ始まったばかりで何処へ打っても同じようなもの(実際はこれがとんでもない間違い!)という軽い気持ちからでした。
 しかし、12才とはいえ、ここ迄勝ち上がってきた孝美さんは、並の少女ではありませんでした。定石外れの手を打たれても、あわてず、騒がず、驚かず、と最強・最善の手を繰り出して早くもここで一本を取ってしまったのです。
注2水谷美貴子五段(第5回女子の部優勝)は孝美さんの妹、暢秀三段(医師)は弟。孝美さんは、その後オランダ王立ハーグ音楽院に留学、国際古楽コンクール3位入賞、現在は水谷孝美ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として関西中心に演奏活動。3児の母、大阪在。
 竹田恭子四段は、仕事(一級建築士)や講演に、趣味(オセロ)に忙しく楽しく活躍中。


第4回大会1976.8.8
続々と新人の登場!
 藤田二三夫氏(男子)、大山恵里子さん(女子)、水谷美貴子さん(少年少女)初優勝

藤田氏(26才、静岡)は、オセロ全日本チャンピオンとして、初の国際舞台に出場!

大山恵里子さん(22才、岡山)は小学校の先生


 男子の部本戦出場は64名

 支部組織も整い、各支部代表は直接本戦に出場できることになりました。午前は4人ずつ16リーグに分れて総当り、午後は各リーグ優勝16人のトーナメント1本勝負になり、男子の部では時間の都合で今回から2局打ちは行われなくなりました。
 余裕手とその放出時期
(1個の完全余裕手は、1個の☆打ちに勝る・・・オセロ格言)
(黒47迄の局面)
原図  白番
16.png

 原図は、準決勝・藤田二三夫(黒)・井上博戦からの取材で事実上の決勝戦と見られた一局です。本局に勝った藤田氏は、決勝1番勝負で久保文孝氏に圧勝(32石勝ち)し、初の国際試合(英国チェスチャンピオンとの3番勝負)に臨み、これに勝って、オセロを世界へ普及する大きな切っ掛けを作りました。
 「オセロとは好手を打って勝つよりは、悪手を打って負けるゲームなり…オセロ格言」の通り、原図で白が余裕手の放出時期を間違えたのが白の敗因です。しかし、「間違うのも実力のうち」といいます。後に、丸岡氏と共に、井上、丸岡時代を作った偉大なオセラー井上氏も、当時はまだ原図の局面で正解手順(X 打ち)に思い至らなかったのでした。オセロのX打ちの謎!
 正解はのX打ちです。まず、原図で、A,C,ア,Xは一応白の余裕手(白だけが打てる)ですが、黒に反撃の手を与えないで放出できるのはのX打ちだけです(正解1図)。以下は必然の進行で、正解5図の局面では、Aは白の完全余裕手(白からはいつでも打てて、打ってもそれによって黒からの反撃手段なし)で、ここで黒の動きを催促する。これは白勝勢です。

(正解1図)、勝負手のX打ち!
黒もX打ちで対抗!
当然の☆打ち!

第4回全日本オセロ選手権大会男子の部準決勝(1976.8.8)

黒.藤田二三夫(静岡)20石勝
白.井上博(東京)
余裕手の放出
白も余裕手の放出
(正解5図)白8石リード

 原図から、実戦(A打ち)は、早まった余裕手の放出で、正解1図と比べて20石損の悪手、この1手で白は一気に敗勢になりました。

注3 女子の部決勝2番勝負・磯部隆子(東京)〜大山恵里子(岡山)戦は、大山さんの2連勝。少年少女の部決勝・伊藤敏明(中1・北海道)〜水谷美貴子(小6・静岡)戦は水谷さんの2連勝。男子決勝・藤田〜久保(東京)戦を含めて、決勝進出6人は全部新人です。


3.日本のオセロから世界のオセロへ

 今や、オセロ競技人口は2500万人となり、第4回全日本オセロ選手権大会(1976.8.8)の予選参加者は、2万人を越えたという物凄さです。しかし、世界的視野から見れば、まずチェスがあり、2位、3位、4位が存在しないというのが実状でした。
 そこで企画されたのが、チェス界の巨峰トニー・マイルズ氏(グランドマスター・全英チャンピオン)対オセロ全日本チャンピオン・藤田二三夫五段の賞金を賭けたオセロ3番勝負です。マイルズ側の要求した2ヶ月間の準備期間を日本側でOKして、この企画は本決りになりました。
注4 マイルズ氏が契約にサインしたのは勝つ自信があったからです。「オセロは歴史も浅く、素人の大会。棋譜も見た。本腰を入れて2ヶ月も研究したら、私は藤田氏に勝つだろう。」
 実際、この3番勝負は、期待通りの大熱戦になりました。

世紀の決戦・トニー・マイルズ対藤田二三夫・オセロ3番勝負

 この対局は、1976年10月20日ロンドンで行われ、その模様はBBCによって全英に放映され、電波は世界に飛びました。

(白46迄の局面、黒が藤田)
第1局原図  黒番
_
正解手順 天王山に打つ!
勝負手のX打ち

正解手順 強く応じる!
絶対の1手
余裕手を放出して手待ち
黒勝勢(10石リード)

3番勝負第1局(1976.10.20於ロンドン)

黒.藤田二三夫
白.トニーマイルズ 5石勝
実戦 悪手(15石損 逆転)
天王山に打って
実戦 白勝勢(5石リード)


 実戦では、藤田氏は原図でアが天王山なのに気づかす、上辺の部分の好形(山)に目が入ってを打ち、逆に白に天王山を打たれてアウト!以後は双方最善手順でした。


藤田二三夫氏(左)〜トニー・マイルズ氏
初の国際オセロ試合(1976.10.20ロンドン)

 第1局に敗れて、藤田氏は背水の陣に追い込まれましたが、流石全日本チャンピオン、第2局は堂々と勝って、勝負は第3局に持ち越されることになりました。

(黒35迄の局面。白がマイルズ)
第3局原図  白番
_
正解手順 天王山に打つ!
黒も天王山に打つ

正解。構えて手待ち。黒の動きを催促
黒も最小限動く
1石返して、再び黒の動きを催促。白優勢(10石リード)

 原図は上方が完全山になっています。完全山は手掛りがないので、黒からは容易に仕掛けられず、原図では白優勢です。以下正解手順のように打ち進めれば、白は勝利へのゴール目指してまっしぐらだったでしょう。
 しかし、実戦では、トニー・マイルズ氏はの天王山に打たず、白ア(悪手)と打って、ここから一気に形勢は黒有利になりました。白は、左方で黒からの猛攻をくらい左上の☆打ちを黒に許し、その結果上方の完全白山も地響きを立てて崩れ落ちてしまったのです。
世紀の国際試合(1976.10.20ロンドン)
3番勝負第3局(双方1勝1敗)

黒.全日本チャンピオン
藤田二三夫 22石勝
白.全英チェスチャンピオン
トニーマイルズ
(結局2勝1敗で藤田氏勝)
 大熱戦の結果は、2対1で藤田氏が勝ち、まずは本家の面目は保たれました。テレビを通じて放送されたこの試合の模様は各国からも注目され、オセロチャンピオンMr.藤田氏は、写真入りで「タイム誌」に紹介されました。
 “チェス以上のゲーム・オセロ”という記事も出ました。それは、オセロそのものがチェスより勝るゲームだという意味ではなく、単なる遊びでなく、賞金を賭けた正式な国際試合で、チェスのグランドマスターに、オセロのチャンピオンが勝ったことをストレートに表現した記事です。
 藤田氏は、その足でアメリカに渡り、“チェスのグランドマスターを破った偉大なオセロチャンピオン・Mr.藤田”は各地で大歓迎を受け、指導対局を行い、アメリカでオセロブームを巻き起しました。間もなく、ニューヨークに世界オセロ連盟が設立され、1977年秋からいよいよ第1回世界オセロ選手権大会が開催されることになりました。
 勝負の世界では、大勝負になればなるほど、勝つと負けるはそれこそ天地の差の結果をもたらします。もし、世紀の3番勝負第3局に藤田氏が敗れていたら、歴史は上記のように動かなかったでしょう。
 それにしても、第3局原図(黒35迄の局面)で、何故、トニー・マイルズ氏が天王山(正解手順)に打たなかったのかという疑問は残りますが、それに対する答は“オセロとは好手を打って勝つよりは、悪手を打って負けるゲームなり(格言)”です。

(2003.3.1. 長谷川 五郎 記)




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