百人の物語 > (第8回)オセロの名人、全日本チャンピオン、世界チャンピオン


オセロ史を飾った百人の名選手の物語
(第8回)オセロの名人、全日本チャンピオン、世界チャンピオン


1. 現名人=史上最強の証明 (挑戦制、不等式の理論、20世紀)
オセロタイトル保持者一覧表…1977〜1990
名人(春.4月)、全日本チャンピオン(夏.7月)、世界チャンピオン(秋.10月)
初代河村名人=史上最強者地位とその継承
(1)間接証明
(2)直接証明

2.
第4期オセロ名人戦(挑戦者選出1983.3.27)
名人決定4番勝負4.3
A. 4連覇を目指し、悠然と迎え打つ河村末告名人
B. 第4期オセロ名人戦挑戦者選出大会 (1983.3.27)
特選熱戦譜3局{石井健一{三村卓也{長谷川武
谷田邦彦長谷川武石井健一
C. 大逆転!長谷川武 新名人誕生 (1983.4.3)
第4期オセロ名人決定戦4番勝負 (14才、史上最年少名人の誕生)
名人位移転を決めた第4局からの取材
原図1爆弾を仕掛けるべきか否か?(爆弾を仕掛けた!)
原図24番勝負のクライマックス!(名人位獲得の爆弾!)
第二世名人長谷川武五段のプロフィール
オセロ歴
14才・史上最年少名人の大記録

3. チェス、囲碁、将棋、オセロの最年少タイトル獲得の記録
A. チェス、囲碁、将棋、オセロ (名人、全日本チャンピオン、世界チャンピオン)
B. 情勢の変化…“挑戦制”から“勝ち抜き戦方式”へ(21世紀)
20世紀の郷愁“挑戦制(史上最強者)
将棋では、囲碁では、チェスでは、オセロでは、
情勢の変化(21世紀)…“勝ち抜き戦方式”へ
(1) 情勢の変化…チェス (“勝ち抜き戦方式”の採用)
(2) オセロ名人戦…“勝ち抜き戦方式”の採用

4. ギネスブックにも載った史上最年少の世界(オセロ)チャンピオン
A. 第1黄金期の掉尾(とうび)を飾った15才のチャンピオン・谷田邦彦
B. 谷田邦彦の全日本選手権、世界選手権での熱戦特選譜4局
第10回全日本オセロ選手権大会…谷田邦彦対北島秀樹(1982.8.8)
第6回世界オセロ選手権大会(1982.10.23〜24.ストックホルム)
予選リーグ{谷田邦彦決勝{谷田邦彦決勝{D.シェイマン
唯一の敗戦局P.モローリ第1局D.シェイマン第2局谷田邦彦
(1) 予選リーグ…運は谷田に味方した
(2) 準決勝3番勝負、決勝3番勝負(谷田〜シェイマン)
実戦原図I(決勝第2局)…黒大ピンチ!
実戦原図II(決勝第2局)…命運を分けた次の1手!
(3) 世界チャンピオンになって帰国(谷田邦彦氏談)

5. 史上最年少でビッグタイトル(現在も不抜の大記録)を獲得した2人の少年の20年後(現在)
谷田邦彦氏 15才で全日本チャンピオン、世界チャンピオン
長谷川武氏 14才で名人




第8回 オセロの名人、全日本チャンピオン、世界チャンピオン


1.現名人=史上最強者の証明 (挑戦制、不等式の理論、20世紀)


  オセロ【 タイトル保持者一覧表 】

春(4月) 夏(7月) 秋(10月)
西 暦 敗者  不等式  名人 全日本チャンピオン 世界チャンピオン
1977
5 井上 博 1 井上 博
78
6 丸岡 秀範 2 丸岡 秀範
79
7 井上 博 3 井上 博
1980 1 岩崎 匡明 河村 末告 8 三村 卓也 4 J.サーフ
81 2 岡田 三男 河村 末告 9 丸岡 秀範 5 丸岡 秀範
82 3 丸岡 秀範 河村 末告 10 谷田 邦彦 6 谷田 邦彦
83 4 河村 末告 長谷川 武 11 石井 健一 7 石井 健一
84 5 長谷川 武 石井 健一 12 谷口 良一 8 P.ラル
85 6 滝沢 雅樹 石井 健一 13 滝沢 雅樹 9 滝沢 雅樹
86 7 滝沢 信行 石井 健一 14 為則 英司 10 為則 英司
87 8 石井 健一 滝沢 信行 15 石井 健一 11 石井 健一
88 9 滝沢 信行 為則 英司 16 為則 英司 12 為則 英司
89 10 滝沢 雅樹 為則 英司 17 為則 英司 13 為則 英司
90 11 中島 哲也 為則 英司 18 為則 英司 14 為則 英司

 “第1期河村名人=史上最強者の証明”は前回書きましたが、その前提条件は、全日本、世界チャンピオン全員参加でした。以後も時の全日本チャンピオンはシードで挑戦者決定戦に参加していますが、上表からも明らかなように第2期、第6期挑戦者決定戦には時の世界チャンピオンのサーフ氏、ラル氏は参加していません。
 しかし、名人戦は、全日本の1.5倍の30分ずつの持時間、オセロ界最高の4番勝負(全日本決勝は1番勝負、世界決勝でも3番勝負)を、名人は毎回出てくる気鋭の挑戦者と直接戦って、“初代河村名人=史上最強の地位”を不等式の理論によって連綿(れんめん)と次代へと伝えて行く実力の棋戦です。上記表で、11回行われた名人戦の挑戦者決定予選に参加したのは、各地区代表の他に14人の全日本チャンピオン全員、14人の世界チャンピオンのうちサーフ、ラルを除く12人が参加しています。サーフ、ラルについては、下記の(1)間接証明、(2)直接証明(不等式)があります。
 要するに、名人戦(史上最強の男、不等式の理論、20世紀)は堂々と20回開催され、オセロ史に燦然(さんぜん))と輝く史上最強の11人の偉大な名人を生んだのでした。

(1)間接証明
J.サ ーフ   B.ロ ーズ   丸岡 秀範   河村 末告
└─┬─┘ └─┬─┘ └─┬─┘  
1981年全米
レイティング
第5回
世界決勝
第3期名人決定4番勝負

(2)直接証明
P.ラル   為則英司 P.ラル   石井健一
(第10回世界決勝3番勝負) (第11回世界決勝3番勝負)



2.第4期オセロ名人戦(挑戦者選出1983.3.27)
名人決定4番勝負4.3

  A.4連覇を目指し、悠然と迎え打つ河村末告名人

 “勝ち抜き戦方式を採(と)る全日本選手権、世界選手権では、当然のことながら毎回チャンピオンの顔はくるくる変わります。今迄全日本選手権大会は30回、世界選手権大会は26回(2003.8.1 現在)行われていますが、連覇したのは唯1人・為則英司第五世名人だけです。全日本選手権を連覇するには14連勝が絶対条件で、その確率は16,384分の1、これでは実力者でも連覇は至難の技。一方、挑戦制を採る名人戦で名人が連覇する確率は4分の1+α(持時間が長い、4番勝負は実力者にとって実力を発揮できる条件)。
 第3期目は、最強の挑戦者・現役の世界チャンピオン丸岡八段を迎えて4番勝負!これも勝って3連覇、年が明けて3月(1983)には北大を卒業して4月からは北大大学院(情報工学)へ。心身共に充実の22才の河村末告名人です。


  B.第4期オセロ名人戦挑戦者選出大会 (1983.3.27)

 この日集ったのは全国各地の予選を勝ち抜いてきた精鋭15人とシードの全日本・世界チャンピオンの谷田邦彦七段の計16人です。特選熱戦譜3局を示します。

熱戦1【闘牛A】
熱戦2【闘牛】
熱戦3【虎C】
(第9回全日本3位)
五段 石井健一39
七段 谷田邦彦25
(世界チャンピオン)
(第8回全日本チャンピオン.第4回世界2位)
五段 三村卓也17
四段 長谷川武47
(第8回全日本少年少女チャンピオン)
(中四国代表.14才.中2)
四段 長谷川武35
七段 石井健一29
(東京代表.18才)

 本命の世界チャンピオン・谷田七段の敗退は意外でしたが、上記「タイトル保持者一覧表」が示す通り、実はこれから5年間続く石井時代の幕開けだったのです。この1月(2003.)に引退した大横綱・貴乃花が最も強かった時期は、大関から横綱に昇進した時(15戦全勝・連覇)でしたが、石井君はここから全日本、世界、そして年明けて名人と一気にタイトルを全部獲得して行ったのです。その昇り竜の圧力に押されて、流石の現役の世界チャンピオン・谷田七段も土俵を割ったのでした(熱戦1)。
 しかし、その昇り竜石井君も、新感覚派・長谷川君の打ち回しに戸惑い、結局負けてしまいました。何と、白に4つの隅(☆ホシ)全部を惜し気もなく与えて、それで黒は平然と勝っています(熱戦3)。
 北海道代表として、まずは優勝を狙って上京した三村卓也五段(第8代全日本チャンピオン)は、思わぬ伏兵・長谷川君の斬新(ざんしん)な打ち回しに振り回されて敗れ(熱戦2)、この1敗が祟って(2勝1敗)予選落ち。
 5戦全勝で優勝した新感覚派・弱冠14才(中2)長谷川武四段が挑戦権獲得!


  C.大逆転!長谷川武 新名人誕生 (1983.4.3)

☆第4期オセロ名人決定4番勝負
ラウ
ンド
名人
河村 末告
挑戦者
長谷川 武
白○37石 黒×27石
黒○36石 白×28石
白×31石 黒○33石
黒×16.5石 白○47.5石
通算 2勝2敗120.5石 2勝2敗135.5石
デイリースポーツ}共催
日本オセロ連盟
(持時間各30分)


河村名人(左)と挑戦者長谷川四段
第4局【闘牛.大量取り】

黒 名人河村 末告 16.5
白 挑戦者長谷川 武 47.5

 名人制創設以来タイトルを守り続けている名人河村末告六段の厚い壁は、まれに見る大激戦・競り合いの末、ついに若き挑戦者によって破られました。14才、史上最年少名人の誕生です。




    ☆名人位移転を決めた第4局からの取材 (原図1,原図2)

(原図1、白番)
爆弾を仕掛けるべきか否か?
(実戦の手)
爆弾を仕掛けた(最善手)!


 爆弾は将来爆発または爆発の危険性をはらみ、双方共怖い形です(「オセロの勝ち方」P144〜7)。
 原図1は、黒が白に爆弾を作るか否かと返事を迫った局面です。
 ここで弱気に白ア(黒壁破りの5石返し)なら、黒Bと右辺2手打ち(手得)(てどく)されてたちまち白アウトになってしまいます。ここは、黒壁を破らず1石返しの白Cが無難な手に映りますが、実はこれが黒の注文。
 若き挑戦者は、断呼としてと爆弾を作りました!

(原図2、白番)
4番勝負のクライマックス!
(実戦の手)
名人位獲得の爆弾


 原図2で白の打てる場所は11ヶ所。
最善手(虎穴に入らずんば虎児を得ずの危険な爆弾)を打てば新名人誕生、次善手以下の残り10ヶ所を打てば河村名人の4連覇成るというクライマックスの局面!「天の利、地の利、時の運!」たっぷり時間のある若き挑戦者は、ここで長考して最強最善の手・爆弾を打ちました。以後は、並べて頂ければ明らかなように、上辺の爆弾は白側有利に大爆発し、その爆風は左辺迄届いて左辺も白一色になりました。右辺の爆弾も白側有利に小爆発。その結果は、今迄の大きな借りを一度に返しても充分なお釣りの出る白石が残ったのです。


14才.史上最年少名人・長谷川武五段
(岡山市立京山中3年 1983.4.3)
☆第二世名人長谷川武五段のプロフィール

オセロ歴…第8回全日本オセロ選手権少年少女の部(中3以下)で優勝(1980.8.10.小6.12才)…第4期オセロ名人戦挑戦者選出大会で優勝(1983.3.27.中2.14才)…第4期オセロ名人決定4番勝負で河村末告名人を破り第二世名人になる(1983.4.3.中3.14才)。14才、史上最年少名人の大記録(囲碁、将棋、オセロ、チェスを含めて)。


3.チェス、囲碁、将棋、オセロの最年少タイトル獲得の記録

チェス 囲 碁 将 棋 オ セ ロ
タイトル名 世界チャンピオン 世界チャンピオン 竜王 名人 全日本チャンピオン 世界チャンピオン
氏名 ポノマリョフ イセイドル
李世ドル
羽生善治 長谷川武 谷田邦彦 谷田邦彦
年齢 18 19 19 14 15 15
西暦 2001.12.14 2002.7. 1989.12. 1983.4.3 1982.8.8 1982.10.24

 チェスは、現世界チャンピオンのポノマリョフ(ウクライナ)が、モスクワのクレムリン宮殿で2001.11.25から12.14まで開催された世界チェス選手権大会で、18才で優勝したのが史上最年少記録です。
 囲碁の世界選手権大会(富士通杯)は、オセロの世界選手権大会より11年遅れて始まりましたので今年は16回目が2003.4.12〜7.7に行われて、7月7日の決勝は李世ドル(イ セイ ドル、ドルは石の下に乙)(20才、世界チャンピオン)対宋泰坤(ソンテコン)(16才)という韓国棋士同士の対戦になり、李世ドルが2連覇しました。日本の依田紀基名人(37才)は惜しくも4位。もっとも、この6年間決勝を争った2人の選手(挑戦制ではありません)は、いつも見なれない漢字名の韓国か中国の選手ばかりです。日本の国技である大相撲でも、現在の横綱はいずれも外国人です。
 将棋の名人戦は1937年開始の最も古い伝統を持つ権威のある棋戦です(囲碁の名人戦は1962年開始)。竜王戦は、1988年に新設されたビッグタイトルです。挑戦制を堅持する名人戦、竜王戦の現在の覇者は羽生善治名人・竜王。
 オセロは、世界的視野から見るとチェスや囲碁の場合と事情を異にします。本家日本の選手層の厚さ、実力はダントツの世界一だったからです。それだからこそ、現名人=オセロの歴史上最強の男(挑戦制、不等式の理論、20世紀)という余裕の棋戦(名人戦)を作り、名人は超然としてその名誉(史上最強の男)に満足し、世界選手権には出場せず、この方式は20期続き、11人の名人(史上最強の男)が生まれました。現在、88オセロ名人、グランドオセロ名人という2つのタイトルを握っているのは、冨永健太第十一世名人(不等式時代の最後の史上最強の男)です。
 世界オセロ選手権大会に出場するのは、伝統に従って全日本チャンピオン唯1人で、途中から出場枠は3人になり各国は最強メンバー3人出場ですが、本家日本は普及面も考慮して全日本チャンピオン、全日本女子チャンピオン、その他計3人(名人は出場せず)のチームを組んで出場、第23回世界オセロ選手権大会が終わった時点では、日本代表(全日本無差別チャンピオン)の優勝18回、他国代表5回(アメリカ2、フランス2、オランダ1)でした。第20回世界オセロ選手権大会が日本で開かれた時は、日本代表3人は、無差別、女子、少年少女チャンピオン(保護者同伴の必要なし)で、優勝は村上氏、3人チームを組んで行う団体戦では負けましたが、西村修君(少年チャンピオン)は、本戦でも善戦健闘し楽しい大会でした。


  B.情勢の変化…“挑戦制”から“勝ち抜き戦方式”へ(21世紀)

     ☆20世紀の郷愁“挑戦制 (史上最強者)

 激動の20世紀100年は過ぎ去り、歴史となりました。ライト兄弟による飛行機の発明、2度にわたる世界戦争、原子爆弾の投下、人類初めて月へ到達……ゲームの世界で初めて正式に実力名人戦(挑戦制)を発足させたのは将棋で第1期名人には木村義雄八段が就任しました(昭和12年.1937)。その陰には、関根金次郎名人が情勢の変化を読み、初代大橋宗桂名人以来300年伝統の終身名人制を廃して、勇退の英断があったのです。大正10年(1921)、小野五平名人(十二世)が91才の天寿を全うして自分に名人のお鉢がまわってきた時、関根八段は54才、既に指し盛りの時期はとうに過ぎていました。しかもその数年後、弟子の木村義雄七段が21才の若さで最高段位の八段に昇段してそれ以後も無敵の進軍を続けて10年余り、実力NO.1でも名人がいる限り絶対に名人になれない不合理制、また実力とは関係なくいったん名人になれば(小野五平十二世名人が名人位に就いたのは68才)、一生涯名人でその間誰も名人になれない不合理制。たとえ、江戸時代から300年の伝統でも、名人の権威を守るためにも、この轍は誰にも踏ませてはならないとした上での大決断でした。

 囲碁も、明治、大正、昭和と君臨した本因坊秀哉名人(二十一世)が引退し、昭和16年(1941)から実力日本一を決める新棋戦(本因坊戦、挑戦制)が正式に発足し、関山利一六段が第1期本因坊になりました。現在(第57期)の本因坊は張栩(チョウウ)九段(23才)です。

 チェスは、FIDE(国際チェス連盟)主催による正式の世界選手権(挑戦制)が発足したのは昭和23年(1948)で、ボトビニク(ソ連)が優勝しました。以後は3年に1回チャンピオンと挑戦者によるタイトルマッチ24番勝負が行われました。世界チャンピオン=史上最強者(挑戦制、不等式の理論)がズバリ解る明快な方式でした。

 オセロの全日本選手権大会(1973発足)、及びその延長線上にある世界オセロ選手権大会(1977発足)は“勝ち抜き戦方式”を採用しています。普及という点も考慮した場合は、この方法が最善です。全日本選手権、世界選手権というひのき舞台に、沢山の選手が実際に参加して打つメリットは計り知れない大きさです。
 しかし、この方式だと、全日本オセロ選手権無差別の部優勝者の顔は毎年めまぐるしく変わることが予想されます(実際第1〜16回、19〜30回は毎回チャンピオンが変わってます)。一方、挑戦制を採る“将棋名人戦”では、木村名人が不敗10年、大山名人13連覇、中原名人9連覇…“囲碁本因坊戦”では、高川本因坊9連覇、坂田7連覇、石田5連覇…趙10連覇…、“チェス世界選手権”では、ボトビニク3連覇(9年間)…カルポフ4連覇(10年間)…といった具合に、その時代の覇者が5年、10年という長い単位でハッキリ浮き彫りにされてます。“オセロ名人戦”(挑戦制)でも、河村、石井、為則(3連覇)、手塚、末国、中島(2連覇)という大名人が生まれ、不等式時代の現役名人が世界選手権大会に出場した時は100%の確率で世界チャンピオンになっています。


     ☆情勢の変化(21世紀)…“勝ち抜き戦方式”へ

 (1)情勢の変化……“チェス”では50年続いた挑戦制が廃止されました(1997)。現在のチェス世界選手権大会は、同じFIDE主催で、2年に1回、勝ち抜き戦方式で行われています。世界各国から選ばれた128人による2番勝負勝ち抜き戦で、準決勝4番勝負、決勝8番勝負です。
 50年続いた挑戦制によるチェス世界選手権戦は、真の実力者(史上最強)は誰かを決める理論的に最高の方法でしたが、最良の方法とはいえませんでした。3年ごとに行われたタイトルマッチ、チャンピオン対挑戦者の24番勝負は、50年間全部ソ連(ロシア)人一色に塗りつぶされていたのでは他国は白けるばかり。唯一の例外は、1972年、初めてアメリカ人のフィッシャーが挑戦者になった時で、チャンピオンのスパスキー(ソ連人)とのタイトルマッチ24番勝負が始まると、当時の国際情勢も加味して、この対局の進行は世界の関心を呼び、アメリカの新聞は連日大々的にその進行を書きたててアメリカ国民は一喜一憂、それが何ヶ月も続いた末、7勝3敗11引き分けでフィッシャーが勝ってチェス世界チャンピオンになった時、アメリカの売場からチェス用具は1台もなくなりました(売り切れ、生産追いつかず!)。それをきっかけとして、アメリカに起こったチェスブームは世界へと波及して行きました。
 3年後の1975年、FIDEが世界チャンピオンのフィッシャーに示した条件は、開催地マニラ、賞金15億円、36番勝負云々(うんぬん)でしたが、その云々で話し合いがつかずフィッシャーが対局拒否、挑戦者カルポフ(ソ連)の不戦勝になりました。1969年スパスキー(ソ連)がペトロシアン(ソ連)に勝って得た賞金は50万円でしたから、フィッシャーに提示された賞金15億円は凄い金額ですが、世界的人気スターが登場した時のスポーツ(外国ではチェス、オセロ、囲碁は頭脳スポーツ)、例えばゴルフ(ニクラウスやパーマー)、ヘビー級のボクシング(褐色(かっしょく)の爆撃機といわれて一世(いっせい)を風靡(ふうび)したジョー・ルイス、白人の好男子で人気・実力共に最大で49戦全勝のうちKO勝43という空前絶後の大記録を残したロッキー・マルシアノ、蝶のように舞い蜂のように刺すムハメド・アリの賞金を考えれば、資本主義社会では当然の金額といえます。
 1975年からは、またソ連(ロシア)人一色に塗りつぶされたチェス世界選手権(挑戦制)が22年間続いた末、終に1997年に挑戦制が廃止され、1998年からは現在の勝ち抜き方式になりました。
 現在、世界選手権大会が正式に定期的に開催されているのは、開催開始年代順からいって、チェス、オセロ、囲碁の3つで、いずれも“勝ち抜き戦方式”を採用していて、これが21世紀の世界の趨勢(すうせい)です。勝ち抜き戦方式を採用(1998)してからチェス世界選手権は4回行われていますが、カルポフ(ロシア)、カリフマン(ロシア)、アナンド(インド)、ポノマリョフ(ウクライナ)と早くも4人の毎回違った顔の世界チャンピオンが生まれてます。

 (2)オセロ名人戦……“勝ち抜き戦方式”の採用
 オセロ名人戦も、区切りのよい20期をもって挑戦制を廃止(周知の通り、理事会内でも選手間でも相当数の廃止反対の意見もありましたが)し、21期(2000年)からは“自由参加制”(その本質は勝ち抜き戦方式)を採用して続行することになりました。これも情勢の変化と新時代の要請です。
 20年続いた“オセロの現名人=オセロの歴史上最強のプレイヤー(挑戦制、不等式の理論)”は、惜しまれながら、ここで終了することになりましたが、その間に生まれた11人の名人の価値は不動のものです。
 自由参加制を採用したオセロ名人戦は、21世紀からはこれ迄の無差別の部1本の他に、女子、マスター、中学生、小学生の部門も新設し、多数の選手が本戦に出場し、沢山のドラマも生まれてます(24期オセロ名人戦 2003.3.22 は前回詳述)。オセロ名人は全日本チャンピオンと共に、国内の1つのタイトル保持者として、日本代表として秋の世界オセロ選手権大会に出場することになりました。
 スピードの21世紀は“世界チャンピオン=世界最強者”の時代です。



4.ギネスブックにも載った史上最年少の世界オセロチャンピオン

  A.第1黄金期の掉尾(とうび)を飾った15才のチャンピオン・谷田邦彦

 オセロ選手権満30年の歴史は、内容から3つに分類されます。第1期は井上・丸岡・河村時代(1973〜1982)。第2期は石井・為則時代(1983〜1990)、何しろこの時代に名人・全日本・世界は計24回行われ、石井・為則2人だけで18回もの優勝。第3期は群雄割拠時代(1991〜2003)。

15才、史上最年少
の全日本チャンピオン
世界チャンピオン
谷田邦彦七段
(学習院高等科1年)
その第1黄金期のトリを占めた3人のチャンピオンは
名人 全日本チャンピオン 世界チャンピオン
(春)河村 末告 (夏)谷田 邦彦 (秋)谷田 邦彦
  第2黄金期の序幕は
(春)長谷川 武 (夏)石井 健一 (秋)石井 健一
  そのトリは
(春)為則 英司 (夏)為則 英司 (秋)為則 英司
となっております。
 第1期から第2期への橋渡しをした谷田邦彦→長谷川武の両チャンピオンが、くしくも史上最年少 (この記録は現在も破られておりません) だったのも面白い現象です。


  B.谷田邦彦の全日本選手権、世界選手権での熱戦特選譜4局

   ☆第10回全日本オセロ選手権大会
特選譜【牛】
黒 三段 谷田邦彦 33
白 四段 北島秀樹 31
第10回全日本オセロ選手権大会
無差別の部準決勝1番勝負
帝国ホテル 1982.8.8

 20世紀の社会に革命を与えた“相対性原理”の発見者・アインシュタイン博士の最大の楽しみは、モーツァルトの音楽を聴くことでした。例えば“トルコマーチ”はリズムが軽快で勇ましく、聴く人の心をなごませてくれます。トルコマーチはピアノ曲ですが、一流歌手・由紀さおり、安田祥子の合唱を聴きましたがこれもまた楽しいものでした。
 オセロも、一流選手がひのき舞台で心血を注いで打った棋譜を並べてみると、モーツァルトの音楽を聴くように、時を越えてそのリズムが伝わってきます。
 全日本オセロ選手権大会は、持ち時間も短く、唯1度の負けも許されない最も厳しい大会ですが、世界選手権に出場するためには、まず全日本チャンピオンになることが絶対条件(名人は世界大会に出場せず)です。世界選手権2連覇を目指した丸岡秀範八段でしたが、全日本準決勝1番勝負で無差別の部初出場の新鋭・15才の谷田邦彦三段に不覚の時間切れ負けで総てアウト、丸岡氏の全日本連勝記録は11でストップ
 全日本の午後は1本勝負のトーナメントですから、ベスト16の最初に最高の好取組ができることもあり、そこで負けた方は即アウト。準決勝とはいえ上記丸岡・谷田戦も覇者交代の絶好の好取組ですが、45手目で時間切れの棋譜では内容的に没。特選譜は、事実上の優勝決定戦といわれた好取組の熱戦激闘譜です。
 全日本チャンピオンになった谷田邦彦三段は、規定によって六段に昇段。


   ☆第6回世界オセロ選手権大会 (1982.10.23〜24.於ストックホルム)

予選リーグ1組(10.23)
唯一の敗戦局【兎1】
決勝3番勝負(10.24)
第1局【兎1】
決勝3番勝負(10.24)
第2局【牛.ヨット避け】
谷田邦彦(日本)29
P.モローリ(イタリア)35
谷田邦彦(日本)34
D.シェイマン(アメリカ)30
D.シェイマン(アメリカ)31
谷田邦彦(日本)33


  (1)予選リーグ…2組に分かれ各組総当り、上位者2人ずつ選出。翌日準決勝3番勝負(1組1位対2組2位。1組2位対2組1位)、そして決勝3番勝負。
 世界チャンピオンへの道は決して平坦ではなく、時には運の味方も必要です。総当たりの結果1組2位の谷田は、そのままなら準決勝シェイマン、多分決勝をモローリと立て続けに3番勝負を打つことになったでしょう。
 しかし、現実は、規定によって谷田はモローリと1組1位の座を賭けてプレーオフ1番勝負を打って谷田が勝って1組1位となり、準決勝3番勝負はシェイマン対モローリ、谷田対ブルイニンクス(30才.ベルギー)に決まりました。運は谷田に味方したのです。

  (2)準決勝3番勝負、決勝3番勝負 (1982.10.24)
 予選リーグの戦績から見ても谷田、シェイマン(1組全勝)、モローリ(21才.第5回世界大会で台風の眼となって、丸岡やローズを散々苦しめた男が、更に一段と強くなってやってきた!)の3選手が抜群の実力者なのは、誰の目にも明らかでした。
 準決勝は、谷田はブルイニンクスに余裕のある2連勝、昼食をはさんでの2時間半で充分に休憩、充電して決勝3番勝負に臨みました。一方、シェイマンは、激闘4時間20分の末、2対1でモローリを破るとすぐ昼食、それがすむとすぐ決勝。実力伯仲の両選手にとって、それは微妙なハンディになったと推測できます。しかし、運も実力のうち、間違いも実力のうち、それが冷厳な勝負の世界です(実戦原図 II →敗着・黒47)。
 かくて、決勝3番勝負谷田邦彦(15才.全日本チャンピオン)対デイビッド・シェイマン(16才.全米チャンピオン)という高校生同士の対戦。谷田は前回の世界チャンピオン丸岡を破り、シェイマンも前回世界2位のローズを破って母国代表となり、この本戦も共に勝ち進んで決勝進出、まさに若さの爆発!勝った谷田邦彦の名は史上最年少の世界チャンピオンとしてギネスブックに載りました。
 17年後(1999.10.30)、第23回世界オセロ選手権大会で優勝(2度目)したシェイマン氏の祝賀会に、国際線パイロット谷田氏がパリからミラノ入り、国際弁護士シェイマン氏と固い握手!

(実戦原図 I .決勝第2局)
黒番。黒、大ピンチ!
(実戦)捨て身の反撃!
白かわす。

見事に危機を脱す!

 実戦原図 I では、黒壁はベラ棒に厚くなり、黒の打てる場所は少なく、しかも黒番。黒絶体絶命のピンチですが、流石(さすが)シェイマン、ここでと捨て身の反撃に出ました。を☆打ちなら、黒Aと相打ちになりますが、それは白も怖い。実戦は29、31と下辺2手打ち(手得)(てどく)することができ、危機を脱することに成功しました。

(実戦原図 II .決勝第2局)
黒番。命運を分けた次の1手!
(正解図)もしこう打っていたら実戦なら形勢不明

(想定図.直感の手)
引き分けの形勢
(実戦)敗着・10石損の悪手

 午前から既に激闘7時間余(連続5局の秒読みなし!)の5局目の終盤戦・実戦原図 II で、シェイマンが勘で打った黒47が敗着となりました。その後、白にも緩手(かんしゅ)が出て差は2石に縮まりましたが途中1度も引き分けのチャンスすらなかったのです。
 正解図は読みが伴わなければ打てない手で、想定図になれば、勝負は決勝第3局へともつれ込んで行ったでしょうが、実は想定図は第一感の手で、正解図から白Aが正着(白2石リード)。但し、白Aは直感ではとても打てない手です。切迫の持時間、疲労、この1局に世界一を賭けた両選手の気迫が錯綜(さくそう)し、とても一筋縄では行かぬ難解な終盤戦でした。

  (3)世界チャンピオンになって帰国 (谷田邦彦氏談)
 「1982.10.30 帰国。その日は私の母校、学習院高等科では学園祭が催されており、先生方、クラスメート、学校を挙げて私の優勝をお祝いしていただきました。川添望四段の計らいで、秋篠宮殿下(当時礼宮殿下)ともオセロ対局させて頂きました。私は無遠慮にも64石勝ちしてしまいましたが、懐かしい思い出です。」



5.史上最年少でビッグタイトル(現在も不抜の大記録)を獲得した2人の少年の20年後(現在)


 どんな社会でも、トップに立ちそれを維持するのは大変なことです。それが日本一、世界一の座だったら、全生活をそれに賭けるのがそれを維持するための第一条件です。前述のように、チェス、囲碁、将棋の史上最年少タイトル獲得記録保持者は3人共すでにその道のプロで、現在も王者です。
 しかし、オセロにはプロはいません。しかも、世界チャンピオンや名人になったのが、高校生や中学生だった場合、それがその少年達のその後の生活に与えた影響は?
 16才以下でオセロの世界チャンピオン(全日本チャンピオン)や名人になった選手は年代順に、丸岡秀範、谷田邦彦、長谷川武、為則英司、末国誠氏の5人で、チャンピオンになったことを誇りとし、実社会で活躍中です。

 ☆谷田邦彦氏 15才で全日本チャンピオン、世界チャンピオン

 「……その後、全日本は準優勝、4位、7位等入賞しましたが、再度の優勝(世界大会出場)は今もって果たせずにいます。
 プライベートでは、学習院大学卒業後1990年全日空に入社。1993年パイロットとしてデビュー。こうした中、1999年ミラノでの世界選手権大会(シェイマン氏優勝)を観戦したことで大いに刺激を受け、10年近く遠ざかっていたオセロに現役復帰を決意しました。(注.21期名人戦5位、22期名人戦4位はさすが昔取った杵柄(きねづか))。現在は機長昇格訓練で多忙のため、再びオセロ界から遠ざかっていますが、数年以内に再復帰したいと思っています。
 また、その間、社内で知り合った女性と結婚し、長男が誕生(2000.6)。子育てに追われながらも、仕事とオセロに関して妻は良き理解者です。」

 ☆長谷川 武氏 14才で名人

 岡山市立津島小6年の時、全日本少年少女チャンピオン(中3以下)になり、新聞に載ったので全校の生徒の知る所となり、そこで皆が相談。クラスで一番オセロの強い女の子が挑戦することになりました。結果は全滅になり大笑いでした。
 岡山市立京山中3年の時オセロ名人。しかし翌年、県立岡山一宮高1年の時年長の現役の全日本・世界チャンピオン・石井健一七段の挑戦を受けて負け。「岡山という地方都市に住んで、強い相手もいないお山の大将では、東京で多くの強豪と切磋琢磨(せっさたくま)している世界一の石井七段に勝つ事は不可能」と考えてオセロの研究を中断。趣味は広く浅く、ゴルフ、卓球、読書、音楽、将棋、新ゲーム・ソクラテス等で楽しい高校生活3年。東大・京大ダブル合格。東大時代は弁論部、マージャンも覚え、また静岡市で行われた全日本ソクラテス選手権大会宇宙遊泳で優勝。将棋部にも顔を出し五段格。
 大学卒業後、第一勧銀(みずほ銀行)入社、現在本店勤務。その間、同行勤務の女性と結婚して2女。仕事に家庭に趣味に充実した毎日。将来親子二代のオセロ名人(女流名人)も夢ではありません。



谷田氏と家族。仕事とオセロの良き理解者の綾乃夫人と悠磨君。

長谷川氏と家族。実紀ちゃんを抱く朋子夫人。ひとみちゃんは来年学校。




(2003.8.1 長谷川五郎 記)




百人の物語 > (第8回)オセロの名人、全日本チャンピオン、世界チャンピオン

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