私は、父四郎(旧制水戸高校教授 英語)母初子の5番目の子として1932年10月に水戸で生まれました。(その後、妹と弟も生まれました)。世の中は平和で楽しい時代でした。
上の姉蝶子(小3)に連れられていつも散歩した偕楽園(1才)、父と一緒に偕楽園に行った時の写真(右)・・・。
五郎baby №2  2偕楽園父№

生後98日の長谷川五郎氏         父四郎氏と5才の長谷川五郎氏(偕楽園にて)

~ 戦時中の記憶 ~

1938年4月三の丸幼稚園に入りました。その前年の7月から始まった日中戦争、国民皆兵の日本では、赤紙(召集令状)が来たら誰でもすぐ出征です。赤紙が来た床屋の小池オジサンは父母の所に挨拶に見え、その翌日元気一杯で出征。幼稚園の菅原先生の夫君も出征中。その頃は戦勝ムードで出征者に悲壮感はありません。しかし現実は冷厳で、間もなく二人とも名誉の戦死の報が。・・・。・・・。
1945年になると戦況は既に激変、3月10日の東京大空襲では、都民10万人が亡くなりました。5月29日の午後、水戸市の上空に真黒な雲がやってきて市内は昼間なのに夜と同じになりました。その暗黒の雲は空襲を受けた横浜からやってきたものだったのです。その暗闇の教室で音楽の瀧先生のしんみりした訓示が印象的でした。
8月2日午前0時頃から、水戸は焼夷弾による空襲を受け、朝になってから帰ってみると、街は焼野原となり、我が家も灰となっていました。とに角、全員が無事だった事に感謝し、電気、ラジオ、新聞もない生活の中で、「新型爆弾が広島・長崎に投下された。ソ連が日本に宣戦布告…」等は全て人づてに聞いて…8月15日ラジオで天皇陛下の肉声で国民は降伏を知らされました。

~ オセロを思いついた環境 ~
国破れて山河在り、校舎はなくても緑の土手があり、その土手の下に黒板をおいた青空授業が9月から始まりました。オセロの原型はそういう環境の下に生まれました。囲碁(相手の石を囲んだら取る)をよく知らない中1の生徒達のガヤガヤワイワイの中から、相手の石を挟んだら取るというルールが私の発案で生まれました。だからオセロの石の裏表は黒と白です。1948年高1の時、友人の芸術家肌のM君が自宅で作ってきた大型のオセロの駒の美しさにビックリ。その駒で打つと一段と楽しくなるのでまたビックリ。1分で覚えられ、内容はスリルとサスペンスの連続、しかも短時間で終わるオセロの原形は一部の生徒間でよく打たれるようになりました。これが後に全国及び世界へと飛躍することになるとは想像もつかない事でした。

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長谷川五郎プロフィール
1932年 水戸市生まれ。オセロの考案者。
現日本オセロ連盟会長。囲碁・将棋五段、チェスも得意。
2015年3月より第40回世界大会(2016年)に向け
「オセロを創った男~五郎のオセロちょっといい話」の寄稿を開始。